翌日、カノンを出迎えたのは、鼻腔をくすぐる数種類のスパイスの香りであった

シナモンと……後はよく判らないが…。

カノンは、正直なところ料理には明るくない
であるので、漂う香りを構成するスパイスの正しい組み合わせなどは到底推測できないのであるが、ただこれが何のメニューの香りであるのかは理解出来た
それもその筈で、ギリシャ人であればまず大概の人間がこの甘い香りには覚えがあるからである

バクラヴァを焼いているのか。

このメニュー特有の、バターや蜂蜜、そしてスパイスにナッツの混ざった香ばしい焼き菓子の匂いがの家の周囲を包んでいる
ちなみに、カノンが正しく推測出来なかったスパイスの組み合わせの残りはナツメグであるのだが、それはまた別の機会に述べる事にする
の家の窓は数箇所が外に向けて開かれ、どの窓からもバクラヴァの香りがぷうんと流れ出している
これほどはっきりとバクラヴァの香りが漂っていれば、ご相伴に預かるために近所の人間が一人二人の家を訪ねて来てもおかしくはないのであるが、やはり今日もの家に人気は感じられないのだった

こんな昼下がりに誰も訪(おとな)いもしないとは、一体はどんな存在なのだ、この町で。

カノンは例のオリーブの大木の陰から身を僅かに乗り出し、一つの窓を凝視した
ひらひらと白いレースのカーテンの翻るその窓は、どうやらキッチンであるらしい
先程から、レースの影に木造りのスパイスラックや食器棚がカノンの視界を時折掠めているからである
わざわざカノンが小宇宙を探るまでもなく、家の中には一人しか存在しない
カノンは眉間を寄せて暫し考え込んだ

は自分一人の為にこうやってバクラヴァを焼いているのだろうか?
…確かに、一人暮らしの女性が自分が食べる菓子を作ってはいけないと言う決まりはない。
だが、ここまで周囲から隔絶した人間が取る行為としては、些か引っ掛かる。

腕組みをしたままカーテンのそよぎを見遣っていたカノンの目に、の姿が突如飛び込んで来た
は開け放っていた台所の窓を鎧戸を残して閉め、ゆっくりと鍵を掛けているようだ
そしてその窓に背を向けると、今度は隣の部屋の窓、そしてまた隣の窓…と一つづつ窓を閉ざし、カーテンを引いて回った
特に天候が悪くなって来ている訳でもない以上、これから外出をするのではないかと考えるのが妥当な線だろう
カノンはオリーブの樹から少し離れ、の家の玄関から完全に死角になっている別の樹へと身体を滑らせて息を潜めた
建物同様、非常に古めかしい玄関の木製ドアが微かに開き、がその隙間からそっと姿を現した
自分の家であるのだろうに、何かに遠慮でもするかの如く申し訳なさげなの閉扉の仕草にカノンは再度違和感を抱いたが、今は黙っての行動を唯追跡する事にした
玄関に施錠し振り返ったがその身に纏うのは、昨日と同じく地味な色合いの衣服だ
濃いグレーのサマーニットに、濃紺のロングスカート
よくよく目を凝らして見るとニットには変わり編みが施されてはいるものの、ニットもスカートも無地で、やはり地味な印象は拭い去れない
手にしている黒い紙袋の中身は傍目には判らないが、妙に平べったい底部と全体の大きさ、そしてが先程まで何をしていたかを熟知しているカノンには容易に推測出来た

…成程、な。誰も来なければ、自分が行けば良いだけの事だ。

案の定、の足は高台の階段を降りて賑やかな街中へと向かっている
一定の間隔を開けての後を追うカノンは、歩く距離を伸ばすに連れ先程までの違和感を徐々に払拭しつつあった

やはりはテロリストなどではない。唯の妙齢の女性なのだ。昨日の病院での一変した態度も、大家族の多い地域に一人で暮らしている事も唯の偶然に過ぎないのだ。
地味な衣服にしても、好みの問題と言えばそれまでの話なのだから。

そこまで考えて、がこれから訪れるのはどんな人間であるのか、段々とカノンの関心はそちらへ向かい始めた

友人だろうか、親類だろうか。…もしかすると恋人の家を訪ねる可能性もある。その場合は自分は何処かへ暫く姿をくらますべきだろうな。
…馬に蹴られて死ぬのだけは御免だ。

カノンが他人の個人的事情にこれほど関心を持つのは珍しい
任務絡みの『詮索』ではなく、あくまでも『関心』なのだから
彼に今回の任務を押し付けた兄あたりが知ったなら、恐らくは目を見張って驚く筈だ
不審な挙動でカノンの警戒心を煽ったと思えば、今度は献身的にカノンの身を案じる
また一転してカノンを突き放しはしたものの、彼女個人の暮らし自体は実にひっそりとして寂寥と静謐ささえ感じさせる
他人に掻き回される事を酷く厭うカノン故、他人に対しても殆どと言って良いほど個人的な関心を抱く事はないのであるが、今回これ程までにの事が気に掛かるのはどうしてなのだろう
もしかすると、『他者からの深入りを拒絶する姿勢』と言う特性が二人に共通して垣間見られるからではないだろうか?―――無論、カノン本人はその点には気付いてはいないだろうが
が時折見せる、強烈なまでに他人からの詮索を拒絶する態度がカノンの琴線に何らかの刺激を引き起こしてしまったのかもしれない
こうして街を歩くの後を追えば追うほどに、カノンは自分が正体不明の不可思議な深みに嵌って行くのを自覚してしまうのだが、そこから抜け出す術を探す必要すら既に起こらないのであった

は街の目抜き通りを過ぎたが、その歩みは一向に緩慢になる気配を見せない
どうやら、のお目当ての人は街外れに住んでいるのかもしれない
自身が街外れに住んでいるのだから、それは十二分に考えられ得る事だった

…何れにせよ、この程度の距離は聖闘士の足に取って造作も無い児戯。

―――カノンのその見当は、数十分も経たずして深く暗い絶望へと転じた






××××××××××××××××××××






のお目当ての人は、確かに街外れに住んでいた。
カノンはが訪ったその敷地の黒いアーチ門の前で俄かに呼吸を詰まらせ、立ち竦んだ
黒い門の中では、沢山の人が静寂に満ち満ちた時間を紡いでいる………誰しもが無言で。
無数の墓標の間を無言で進むの横顔が妙に白く見えるのは、夥しい墓石の色を反射したからであろうか
カノンは何故かそれ以上の後を追ってはいけない気に捕らわれ、門前でじっとの後姿が小さくなるのを見詰めていた
一つの墓標の前でが立ち止まり、黒い紙袋からバクラヴァを取り出して供える段に至ってカノンは猛烈な後悔と忸怩の念に襲われたが、時は既に遅かった

は一人暮らしなのではない。家族は「居た」のだ。それを俺は………。

カノンが下唇を噛むとじわじわと口の中に錆びた鉄の味が広がったが、彼がそれに気を取られることは無く、唯握り締めた拳が小刻みに彼の上半身を震わせた
初夏のギリシャの澄み切った明るい青空と目の前の墓地の光景が奇妙なまでに不釣合いに思え、カノンは突如吐き気を催して門柱に片手を着いた
「死」は聖闘士であるカノンに取っては至極日常の物であり、今更微塵の感慨も引き起こすべくもなかった筈であるのに
彼がこれほどに「死」を忌むべき物に感じたのは初めてだった
…否。

……いや、忌むべきはこの俺の方だ。今の俺には、の憔悴し切った青白い横顔をこれ以上目にする資格は無い。

門柱に凭れた手とは逆の手で口元を覆い、カノンは墓地に背を向けてこみ上げて来る吐き気を懸命に堪えたが、咽元を激しく刺す酸にむせゲホゲホと咳を洩らした


「………カノン、さん……?」


若干の距離を隔てた墓石の前に跪いていたが顔を上げ、驚いてその場に立ち上がる
膝を軽くはたいて、はカノンの立つ門柱の方へとゆっくり駆け寄った


「やっぱり、カノンさんね。………でもカノンさんがどうして此処に………?」


カノンの正面に立つが、眉を顰めてカノンを見上げる
カノンは何も言わなかった。――否、何も言えなかった
酷く気分の悪そうなカノンに気付いたがカノンに向けて手を差し伸べたが、カノンは咄嗟にその手を押し返した


「何でもない。俺に構わないでくれ。」

「え………あ……、ごめんなさい。」


は短く謝ると酷く悲しげな表情を浮かべ、カノンは俄かにはっとして一度は押し返したの手を取り、出来るだけ優しく握りしめた


「カノンさん…?」

「済まない。俺が悪かった。俺は……、お前の後を尾行(つけ)ていた。」

「尾行(つけ)ていたって…私を?何故?」

「自分にもよく解らない。…最初は、お前を要警戒人物として尾行していた。」


はカノンの衝撃の告白に顰めていた眉を開き、目を見張った


「要警戒人物って、つまり危険人物って事…?何故?それに『最初』って何時の事なの?」


矢継ぎ早にが疑問を投げ付け、カノンはそれに対し暫く沈黙を守った
無論、この状況でに対して黙秘し通せるとはカノンは微塵も考えていないし、そうすべきではない事もよく解っている
唯、言葉をよく選ぶべきだと、そうカノンは考えていたのである――これ以上、今のを傷付けない様に、と
たっぷり二、三分も経過しただろうか、カノンは貝の如く閉ざしていた口をゆっくりと開いた


「俺はある筋からの任務を請けて、テッサロニキの警備に当たっていた。」


予想外の単語が次々とカノンから齎(もたら)されは驚きを隠し切れなかったが、少し時間を挟み、ようやくの事で話の内容を把握出来るレベルまで心を落ち着けるのに成功した
カノンと真っ直ぐに対峙するの表情からは、先程までの好意的な温度は綺麗さっぱり取り払われ、実に冷ややかだ


「警備に当たっていて、私を『要警戒人物』だと思ったと言う事は、つまり私がテロリストか何かの犯罪者だと思ったと言う事ね?」

「…そうだ。」


事実、に対するカノンの初見がそうであった以上、カノンとしても諾と答えるより他にない
カノンはが次にどんな怒りの言葉を発したとしても総て甘んじるつもりだったのだが、その悲壮なまでの覚悟は見事に裏切られる結果に終わった
が突如として笑い出したからである


「テロリスト!?私がテロリストですって!?………夫をテロで殺されたこの私がテロリスト!」


静寂に満ち満ちた墓地の敷地一杯にの高らかな笑い声が響く
狂気がくっきりと刻み込まれたその表情に、カノンは背筋に冷たいものが走った


「なんて可笑しい話でしょう、私がテロリストなんて…!古典悲劇も顔負けね!」

「…!」


異様に顔を歪めて笑い続けるを、カノンは後ろから抱きとめた
から見えぬカノンの表情には苦渋の色が満ち満ちている
幾らの夫がテロで亡くなったとは知らなかったとは言え、が此処に来た時から薄々の事情は察していた筈であったのに。
後悔先に立たず。まさにその言葉に尽きる
カノンは一度から身体を離し、今度は正面からきつく抱き締めた


「もう良い、もう良いんだ、。お前の事を解った振りをして誤解していた俺が全部悪かった。…だからもう自分を欺くのは止せ。」


刹那、狂った様に笑い声を上げていたがカノンの胸の中で声を失い、俄かに崩れ落ちる
カノンは必死でを抱き止めた


……お前は夫の喪に静かに服したかった、唯それだけだったんだろう。」

「……そう、その通りよ…。」


カノンの胸の中では肩を震わせ始めた
後手に回ってばかりの己の不甲斐無さをカノンは心底呪い、薄く整ったその唇をきつく噛む
の嗚咽はカノンの耳道からじわじわと心の裏(うち)に拡がり、苦く暗い染みを幾つも落とした
符合しないパズルのピースの正体は、の心の奥底に刻み込まれ、今も生々しく血を流し続けている傷跡であったのだ
カノンの心の内部で今ようやく完成したパズルに描かれたの姿は、どんよりと沈み切った重苦しさに今にも押しつぶされそうだ
カノンがを抱く自分の指に一層の力を籠めると、は身体を僅かに捩った
慌てて指の力を抜き掛けたカノンの身体を、今度はが抱き締め返す


「カノン…さん、貴方の指がこんなにも痛い。……『痛い』のは、私が今この瞬間も生きているからなのね。死んでしまえば、痛みを感じることすら出来ない。」

「…。」

「あの人が感じる事が出来ない『痛み』を、私はこれからも感じ続けて行かなくてはいけない。私の上に『死』が訪れるその日まで。
……それが『生きている』証なのだから。」


はカノンの胸の中で頭を項垂れ、背に回した腕の力をふっと抜いた
深い憂いに沈んだのその表情からは既に生気が散じ掛けている


「……三年前。」


は深い溜め息を一つ落とした


「三年前、テッサロニキで無差別爆弾テロが在ったのは知っているかしら。」

「ああ。確か3月だったと思うが、死者が二人出た筈だ。…左翼系過激派が直後に犯行声明を出したが、まだ犯人は捕まっていない。」

「…そうよ。そして、その死者の一人が私の夫だった。まだ結婚して一年だった。左翼も右翼も関係も無いあの人はただ偶然巻き込まれて………もう二度と帰ってこないわ。」


の話をそこまで聞いて、カノンはの地味すぎる衣服の謎が解けた
――遥か昔より敬虔なオーソドックス(東方正教会)の国であるギリシャでは、今現在でも未亡人は三年の喪に服す習慣が残っている
その期間中、未亡人は常に黒い衣服を身に付け、再婚は道徳上許されない
もしもこの期間中に彩り鮮やかな衣服を身に着けようものなら、残念だが近所の住人から『もう遊び歩くふしだらな女』と噂されるのが常だ
ギリシャのように地縁の濃い社会に在っては、近隣からの芳しくない評判ほど恐ろしいものは無いのである
――無論、カノンの如く馬耳東風な男には何の意味も持たない慣習であるのだが。
ともあれ、この春先に喪が明けたばかりのの服が自ずと地味な色合いになるのは、致し方ない話であった
そして同時に、病院から自宅まで送ると言う昨日のカノンの提案をが頑なに拒絶した理由も其処に起因していると思われた
『夫の喪に服したかった』、カノンの言葉通り、まさにそれだけがの願望であったのだった
………だが。
カノンはの心痛を慮りつつも、整ったその眉根を一層険しく寄せ、胸の内のを見下ろした


「『痛み』を感じる事だけが、お前の人生に残された道なのか?お前はこの先、『痛み』以外の感情を総て排除して生きるつもりなのか?
 ……それは違う。そんな事を………お前の夫は望んではいない。」


『俺』と言う一人称を敢えて『お前の夫』にすり替え、カノンはに強く切り出した
を抱くカノンの腕の力までもがぐっと強くなり、は顔を上向けてカノンを見上げる
の目に映るカノンの眼光は険しく強いが、一方でどこか慈しみに似た優しさを秘めているようにも見える
カノンはを真っ直ぐに見据え、言葉を継ぐ


、お前が夫の死を悼むのは当然だ。喪に服すのもまた妻として自然の道理だろう。…だがな、何の為にこの国で『服喪』が定められているのか、それを見失っては意味が無い。
 喪に服すのは、残された人間が自分の人生を前向きに送るための、その準備期間なのではないか?」

「前向きに生きる…準備期間…。」

「そうだ。一定期間喪に服す事で自分の心に区切りを付ける。そうしないと、悲しみを引き摺ったまま残りの時間を送る事になるからだ。」

「…それではいけませんか?」


の目から涙が零れ落ちる


「夫を喪った悲しみを引き摺ってはいけませんか?」


カノンはの悲痛なその一言に一瞬息を呑んだが、意を決するとゆっくりと頷いた


「…ああ。それは許されない事だ………お前の夫に取っては、な。」


…欺瞞だ。

夫の名を騙る自分に罪悪感を感じないと言えば嘘になる
だが、それでもが自分の人生を取り戻してくれたらそれで良いと、カノンは敢えて自分に言い聞かせる事に決めた


「お前の夫は、お前のそんな優しい所を愛していたのだろう。だからこそ、お前が永劫の哀しみに打ちひしがれ続ける姿は見たくないと、そう思っている筈だ。」

「……本当に?本当に夫がそう思っていると、貴方は思うの?」

「ああ。きっとな。3年もの間お前が喪に服し続けてくれた事に、お前の夫は深く感謝していると思う。…だからもう、それで良い。」


カノンの最後のその一言に、は再度顔を伏せて泣き崩れた


「………ありがとう、カノンさん。」

「カノン、で良い。『さん』は要らない。」

「ありがとう、カノン。…私、きっと誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。『もう良いよ』と。
 私ね、三年の服喪が過ぎても、気が付くと生活の一部に自然と夫が溶け込んでいたの。…それで、尚の事塞ぎ込んでしまって。」


は赤い目のまま、手にしたバクラヴァの空き箱を持ち上げて見せた


「これもそう。…バクラヴァは夫の好物だったの。私自身はそんなに好きじゃないのに、気が付くと作ってしまっているの。」


カノンはその一言を聞いてある事に気付いた


「…昨日の箱。」

「え……?まさかカノン、見てたの?あの箱の中身まで。」


は赤い目をこすり、僅かにはにかんだように笑った


「そう、あれもバクラヴァ。昨日は出掛けた先のテッサロニキで、偶然ケーキショップを通り掛ったの。
…そして気付いたら夫の分と自分の分、二切れ買ってしまっていて、どうしたら良いか分からなくなって……。」


ゴミ箱の前で幾度となく逡巡するの姿をカノンは思い起こし、深く得心した

…そうか。それであの時バクラヴァを捨てようとしていたのか。


「前に歩き出さねばならないと、心の何処かでお前は十二分に解っている。だからこそ、あの時手にした箱を処分しようと思ったのだろう。」


は無言で一つ頷いた
カノンはふっ、と唇から小さな呼気を洩らし、至極微かに笑んで見せた


「大丈夫だ、それなら心配は要らない。…、お前はもう、前に歩いて行ける。いや、もう歩き出していると言っても良い。
 ………掴むんだ、お前だけの人生を。これからの時間で。」

「私だけの…人生。」

「ああ。」


は暫く口の中でカノンの言葉を復唱し続けた後、徐に顔を上げカノンの顔を見詰めた
まだ青白さの残るの表情に僅かな灯りが点り、徐々に温度を上げて行くのがカノンにははっきりと感じ取れる
そしてカノンの背に回していた腕を解くと、はカノンの大きな掌を包み込んだ


「…カノン、『私だけの人生』で最初の願いを、貴方に一つ聞いてもらえたら嬉しいのだけど…。」

「ああ、何なりと。」


即座に下されたカノンの諾の一言に、の貌(かんばせ)には小さな笑みが咲く


「…家にね、今日焼いたバクラヴァがあるの。一緒に食べてくれるかしら……私と、これから。」


カノンはまるで眩しい物を見る様に目を細めてを見遣り、頷いた


「ああ。ご相伴に預かるとしようか。まだ日暮れまでにはたっぷり時間がある。」

「……テラスにテーブルを出すわ。椅子も二つ。」


顔を見合わせて二人は穏やかに笑うと、やがてどちらともなく歩き出した―――の家へと続くその道を。
肩を並べて消えて行く二人の後姿を、墓地の黒いアーチが無言で見送った






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